「反仮定ブス幸福論」

先日、「ちょうどいいブス」を自称している女芸人さんが「仮定ブス幸福論」という説を唱えている動画を見た。

これがとても絶賛されていたのだが、僕はなんか凄いモヤモヤした。

 

何でモヤモヤするのかを考えていたら、貴重な休日があっという間にすぎてしまいそうになり、これはいかんいかんという事で、ほっといたのだが1日経過した今でもモヤモヤしている。何かツイートしたくなったのだが、ダサいから辞めよう。野暮だとか思って押し殺していた。

「仮定ブス幸福論」を最後にもう一回見て、考えるのを辞めようだなんて思っていると、コメント欄に目がいく。

「ブスなんていないよ!みんな美人だ!」とか「この人本当は美人だよ」とあり、

しまいには「こんな大勢の場で堂々とできている時点で立派」と(ブスなのによく頑張っている)的な本末転倒な意見などを目にし、やっぱこの説ヤバいんじゃないかなと、とてつもない違和感にかられ、こうしてブログを開いてしまっている。

「仮定ブス幸福論」は男女問わず、外見の美醜に関わる問題なので、これは全員に当てはまる話だと思う。

 

でざっくり「仮定ブス幸福論」って何かって言うと

「今よりもっと魅力的に、幸せになるために、自分を「ブス」だと仮定してみよう」

というものである。

「ブス」だからせめて〇〇にしなきゃと思って行動する。

・ブスだったら、ゴミが落ちてたら拾った方がいい。

・ブスは物事を知らないよりは知った方がいい

美人のバカ→天然

ブスのバカ→バカ

つまり、美人がやってない事を積極的にやらなくてはならないという事らしい。

彼女は「トイレットペーパーチャレンジ」と言うものをやっているらしい。

 

・トイレットペーパーチャレンジとは

トイレに入って空のトイレットペーパーを1つ替えたら1ポイント。100ポイント溜まったら幸せになれる。というチャレンジ

で結果、当たり前の事が当たり前にできる女性になると言った具合だ。

 

僕はこの女芸人さんが言っている事は、割と間違ってないと思うし、

ブスだと仮定して何か良い行いをしても、「損」はしないという考え方も別に良いと思う。

「人は見た目より中身」と言う説を真っ向から否定した上でってのも、爽快感があるし多くの共感を得た理由でもあると思う。割と本当の事言っていていいなと僕も思った。

でも、最後に「一回くらいイケメンと付き合ってみたい」「イケメンって意外とイケる」「家庭環境が複雑で傷ついてるイケメンはイケる」って発言でめっちゃげんなりした。急に安っぽくなったからだ。

 

 

自分の内側の話をしていたのに、異性は外側で選ぶのかよって話になる。

それはそうなんだよ。そうに決まってる。

だったらいくら内側を磨いても

「トイレットペーパーチャレンジ」なんてしても、誰も見てないぜって事になる。

そもそも冒頭で言っていた「ブスだったら内面を魅力的にするしかない」って発言が本当にそうか?と思う。 

つまりこの「仮定ブス幸福論」ってのは、最後まで外見に縛られた説であるし、

ここで唱えられている仮定ブスの「幸福」とは「良い外見の異性と付き合う」といった、非常にちんけなものだという事だ。

 

「外見の美醜」から抜けきれず、あらがった結果「内面」にこだわるという考え方に僕は違和感を覚えたんだと思う。

僕は外見の良い人は、それだけでかなり得をするし、この「仮定ブス幸福論」で言うところの「幸福」という物に触れる機会が恵まれていると思う。

就活でも「顔採用」という物があって当然だと思う。

俺が「仮定ブス幸福論」で大丈夫か?って思うのは、

例えばトイレットペーパーチャレンジで100ポイント溜まったのに、幸せが訪れなかった時、それは「損」になってしまうのではないかと言う事だ。

つまり、「誰にも見られてない所で良い行いをする(内面的)」動機が「自分がブスだから(外見)」といった場合、そしてその内面的活動に何らかの「見返り(イケメン、美女と出会う(外見)」を求めた場合、見返りがなかった時の自分や、自分をより顔立ちが整っているだけで、自分よりもここで言う「幸福」をつかんでいる人達を許せるのか、そして自分は不幸という事になってしまうのかという事にある。

 

長々としてきたが、1番モヤっとしたのは「見返り」という部分。

「外見より中身」でもない。「自分のここにマイナスがあるけど、他のプラスの部分で補う」でもない。マイナスな部分に対して、見て見ぬふりをする事はできないし、ずっと目をつぶっていると劣等感として湧いて出てくる。

顔がブサイクだから内面を立派にと生きるのもいいけど、その腐った意気込みから育てられた長所の弱点は「自分が1番わかっている」という所だ。

この「仮定幸福論」は

「外見が劣っているから、内面を磨く」という、割と自分の中で解決できる問題なのに、外見が優れている人にそれを見抜かれたいというのがおかしな話であるし、

ここまで外見の優劣前提で進めている説なのに、内面を磨いたとて、外見は仮定ブスである事には変わりはないという事を無視している。

「外見より中身説」よりよっぽど綺麗事だし、何よりも卑しく思える。

僕らは外見という事に関しては、「限界」を背負って生まれてきてる。

弱点を肯定する事は、その弱点をなおす努力を放棄しているのとは違う。

 

近々漂っているように思える、

自分の「コンプレックス」を開き直っては突き出し「こんなイケてない私、俺らでも」「ありのままの自分で」的なムードが本当に嫌いだ。それに勇気をもらってる奴らの意味が分からない。

それは「外見がブス「なのに」頑張っている。すごい!!勇気をもらった」というのは、「お前ブスだな!!」と言っている奴と何も変わらない。

 

「目が一重」だってのは、単なる「特殊性」である訳でそれを「個性」だって言われたとて。とてなんだ。

 

長々長としてきたけど、

僕は自分を「仮定ブス」とするならば、開き直って突き出すのではなくて

肯定し、平気でいるべきだと思う。